日本語パートナーズ記@マニラ

日本語パートナーズ フィリピン3期として9カ月間の活動を経験。大学では国語学を専門にやっていましたが、キャリア的には背水の陣。

差別語など思うところ

 あらためて言うまでもなかろうと思いつつ、このブログがあくまで僕個人の雑記にすぎないということを注記しておきます。

 最近、また言葉についての議論が盛んになっているようです。日本にいないためにあまりニュースが入ってこないものの、主にインターネットを通じて色々な人が意見を述べているのを目にします。今回隆盛したきっかけの事件についても、僕は理解しきれていないところがあるのでわかりませんが、ある言葉が差別的だどうだというところは、もう少し根底的な問題として冷静に話し合われてよいと思っています。

 

  語弊を恐れずに言えば、僕は「差別語」とラベリングされる言葉は存在しないのではないかと思います。古い例だと「つんぼ」とか「びっこ」とか、最近だと「障害者(表記含む)」とかありますが、語として見たときにこれらはある状態(病状)を指しているにすぎないわけです。特に初めの2例については、現在放送コードに引っかかるようでほぼ使われなくなりましたが、こうした言葉が問題視されるのはあくまで使い方が悪いからではないでしょうか。

 「びっこ」を例にとりますと、脚をけがして引きずっている少年に対して「びっこひいてどうしたの?」というのは別段問題のない表現でしょう。その段階で少年が足に怪我をしているという意味において表現は正当であって、なんの嫌味も差別意識もないからです。けれどもこれが、明らかに馬鹿にする意図をもって「やーい、びっこだびっこだ」と囃したてますとこれは問題だと言わざるを得ません。

 しかし、先に述べたように「びっこ」という言葉自体には、必ずしも差別意識が盛り込まれているわけではありませんから、ここで問題視すべきなのは脚の不自由な人を囃したてる風潮というか社会意識の方ではないでしょうか。そうした、よりラディカルな問題を議論しなければ、例え「びっこ」を封印して「脚が不自由」などと言い換えても、今度は後者が言葉狩りの対象となるに過ぎず、いたちごっこの感は否めません。

 

 「障害者」という表記についてもそうです。昔読んだ批判では「『害』は悪い印象の漢字だからひらがなで書くべきだ」というものがありましたが、個人的にはあまり有意義な主張とは思えませんでした。まず「害」がダメで「障」が許容されるというのが理解できませんし、よしんば表記に「悪いイメージ」があるにしてもそれは「障害(病状)」についてのことであって、その人自体が害悪だという意図は誰も持ち合わせていないでしょう。また上に書いたように、言葉を変えたところで風潮が変わらなければ「差別」はぬぐいとれないと思います。

 以前大学の先生に「ひとりでも『障害者』という表記が嫌だという方がいる以上、私はそれを使うべきではないと思う」というような主張をする方がいましたが、僕としては賛同しかねます。といっても別にレッテルを押し付けようとしているわけではなくて、その「嫌だという方」とはもっと話し合うべきだと思うのです。一方的に主張(あるいは苦情)を受け入れるだけでは事態は全く好転しませんし、「ひとりでも」という発想でコロコロ表記を変えるべきだとすれば、どのように呼称を決めようが無駄な話でしょう。極端な話、そんな傾向が続くと「障害者」についての言及を一切避ける世の中になってしまうかもしれませんが、当然そんなあり方が正しいとは思えません。ものすごくきつい言い方をあえてしますと、そんな小さなことよりも気にすべき(議論すべき)ことが他にあるのではないかと思います。

 

 少し話題はずれますが、同じようなことを「おつかれさま」「ごくろうさま」問題でも僕は感じます。僕は別段そうは思わないのですが、「ごくろうさま」は目上の人に使うべきではないみたいな風潮が広がっているそうですね。そう思う派の友人に聞きましたら「いや、感覚としてそうでしょう」というわけです。聞いた話では、いつの頃からかマナーとか就職活動とかの本でまことしやかに書かれるようになり、それがすりこまれていったものだそうですが、それ自体は否定しません。言葉はなんとなく移ろっていくのが常、とは理解しています*1。けれども、明らかににこやかな顔で労いを示しつつ「ごくろうさまです」といっている人間に対して、「ごくろうさまとは何事だ!俺を下に見ているのか!」と声を荒げるのは全く理解に苦しみます。そうした態度で臨んでいるのに「下に見られている」と感じるのであれば、その人の感情が歪んでいるとしか言いようがありません。「了解です」なんかも同じですね*2

 

 僕が言いたいのは、ある言葉を聞いて嫌な人がいたときに、その言葉を切り捨てたり封印したりするのではなくて、なぜ嫌な思いをする文法で使われてしまったのかという背景を考えたほうがよいのではないかということです。言葉を発する側が「いわれのない差別」をぶつける意図があったのかもしれないし、もしかしたらそれは受け手の被害妄想的なもの(誤解)があったのかもしれないわけです。

 とかく何かにつけて、苦情を受けたら議論の余地なくただ引っ込める、という風潮が僕は嫌いです。それの真偽、あるいは妥当性を議論することなしに、なんの発展も望めないではありませんか。よし、なんら発展が望まれていないとしたら、そんな社会こそ僕は嫌いです。

 

 ちょっと感情的な書き方をしてしまいましたが、そんなことを考えながら日本のニュースの断片を見聞きしています。

*1:とはいっても、いかにも正しいという顔をして「ごくろうさまを上司に言ってはいけません」などというマナー本は感情として嫌いです。「ノック2回はトイレで使うものだから、面接のときは3回すべし」もそうですけど、バカバカしい「マナー」を吹聴して洗脳するような潮流、あるいはそれを疑うことなく信じ切っている就活生たちがたまらなく嫌だったので、僕はふつうの就職を諦めました。

*2:もう話したかもしれませんし関係ない話ですが、昔バイトをしていたコンビニで、あるおじさんの客が店員に「了解です」と言われたのに腹を立て、怒鳴り散らしていたことがあったそうです(僕がその場にいたら、絶対に譲らず口げんかになっていたと思うので、居合わせなくて本当によかったです)。しばらくたって、そのおじさんが店内で置き引きをはたらいたことが発覚して「ああ、その程度の人間か」と思ったことがあります。