日本語パートナーズ記@マニラ

日本語パートナーズ フィリピン3期として9カ月間の活動を経験。大学では国語学を専門にやっていましたが、キャリア的には背水の陣。

滞在179日目:年末のマニラ観光②「戦争の爪痕を見る」

 朝の集合は7時。今日はマニラ湾からフェリーに乗り、かつてアメリカ軍および日本軍が基地を構えたことで知られるコレヒドール島へ、パートナーズ4名でお勉強に行きました。事前にきちんと予習しておこうと思いながら、気力と資料との不足によって無知なままの訪問となりましたが、ガイドの日本語が達者でしたので助かりました。

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 ボホールでのこともあって、僕はフェリーが非常に心配でした。1時間ちょいという移動時間もそうですし、この日はあまり寝られませんでしたので体調も万全とは言えなかったのです。

 幸い座席ではまずまず休めたのですが、島に近づくにつれて波が高くなるのには参りました。あれが1時間続いていたら観光どころではなかったと思います。ともあれどうにか思考を保っていられる程度の船酔いで済んだのは幸運でした。

 

 コレヒドール島は大きなオタマジャクシ形をしていて、移動は路面電車のようなバスが使われました。てっきり徒歩がメインだと思っていましたので、体力を使わなくて済むのはこの場合ありがたいことでした。車酔いの懸念もありましたが、冷たい風が心地よく、景色を楽しむ余裕を維持できました。

 このバスというのはどうやら客の国籍ごとに分けられているようでして、従って僕らが乗った号車には日本人しかおらず、バスガイド的なおじさんも日本語がそこそこ達者に話せる方でした*1

 

 まず目に入ったのは廃墟。アメリカ軍が建てたものですが、「朝から晩まで爆弾が降る」環境によって、ほとんど当時の面影を残していません。

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興味深かったのは、この建物に使われたセメントが「浅野セメント(現太平洋セメント)」の提供によるものとのことです。日本との貿易史はさておき、わざわざ日本から取り寄せた理由は、単純に距離の問題だそうです。つまり、アメリカから運んだのでは固まって使い物にならなくなるが、日本から運べばまだ使える状態でセメントを届けられるからだというのです。この島の建物はほとんど浅野セメントによってつくられていますが、雨風に耐えて現代に形をとどめている点では、堅牢な質を誇ったものと思われます。

 

 それから数々の大砲を見ました。大小色々ありますが、ものによっては20km以上の射程をもっていたということで、当時は非常な脅威であったことがうかがえます。島の位置としてはマニラ湾の入り口にぽつんと浮かんでいる形ですので、ここを拠点として大砲を構えるのは極めて戦略的というわけです*2

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 ジョルジュ・メリエスの『月世界旅行』にでてくるような巨大な砲台のそばには、爆撃跡のクレーターがありました(写真左の柵内)。聞けば、これは日本軍の軍機が特攻をしかけた跡、すなわちカミカゼの痕跡だというのです。よくよく見れば、たしかに爆撃機の残骸がそのままに残っています。それでも大砲を破壊できなかった理由は、突っ込む直前にアメリカ軍の攻撃を受け、照準がずれたためだそうです。

 

 それから、日本軍の事務所も残っていまして、壁には「吉田部隊用」という文字が未だ読めました。

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とかく爆弾が降り注いだこの島には食料の問題もあり、またマラリアも流行したため、多くの日本兵が命を落としたということです*3

 

 途中には記念館やメモリアルに立ち寄りました。記念館では当時日本人が使用していた品々が展示されているのですが、千人針やヘヤ―トニック、麻雀牌、ビール瓶など、ちょっと珍しいものも見ることができました。

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 僕がここでメモリアルと呼んでいるのは、祈念碑や墓石の類が並んだ広場なのですが、これは不思議とハワイや沖縄で見学した同様の施設と雰囲気が似ているように感じられました。

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この「感じ」というのは言葉にしづらいですが、霊感のある人にとってはかなりキツい場所なのではないかと思います。それをいったら島全体がそうなんでしょうが、幸か不幸か、僕にはその手のアンテナは一切ありません。

 

 最後に、山をくり抜いたトンネルというか壕のようなところを見学しました。ここは当時の建築そのままではなく観光客向けに改装されていて、スピーカーから流れる解説と、所々に設置された等身大の模型によって、当時ここがどのように使われたかを学ぶことができます。

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しかし、当たり前ですが解説は全部英語。哀しいかな僕の英語力は「それなり」でしかありませんので、よしんば聞き取れる文であってもスピーカーを通すと途端にわからなくなってしまいます。この障壁は母語であっても起こり得るものですが、外国語となるともうお手上げです。

 とはいえ、部分的に聞き取れた内容とリアルなジオラマとで、なんとなくの概要はつかめましたし、なにより感じたのは壕のなかの暗さと暑さでした。爆撃によって、戦時下をこの島で暮らした人は外を出歩けなかったということですが、穴倉の中の生活はさぞ息の詰まるものだったでしょう。これに爆弾の音、振動のストレスもあっては健康に生き延びるのはほぼ不可能と言っていいかもしれません*4

 

 

 そんなこんなで、コレヒドールの観光は終わりました。記事にすると大した内容がないようですが、ほぼ1日がかりの見学は、学ぶところ・感じるところも非常に多かったです。僕らの中では、マニラに来て最初に受ける研修中に、みんなでまとまって来たらもっと勉強になるのでは、という話にもなったくらいです。やはり僕ら日本人は、歴史を知らなくてはいけないのだと痛感させられます。

 

 ところでこの島では、少しばかり値の張る買い物をしました。

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日本がフィリピンを占領している時期に発行された、フィリピンペソ札と緊急通貨とのセットです。博物館やカタログなんかで何度も目にしていて、いつか手に入れたいと思っていたものが、案外すんなりと手に入ってしまいました*5。正直言って相場からすると安くはないと思いますが、この島でこれを購入したことそれ自体に、僕は意義を見出しています。

 

 

 で、あまり実感こそありませんがこの日は大晦日。観光の後はマニラ圏に住むパートナーの家にお邪魔して、賑やかな年越しを迎えました。

 

野火 (新潮文庫)

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ルソン戦―死の谷 (岩波新書)

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*1:曰く日本には行ったことがないということですが、聞いたところN5~N4くらいの能力はありそうに思いました。ネイティブにとっては不思議な言い回しもあるものの、それでもガイドとしては充分に伝わるレベルでしたのでありがたいです。

*2:ガイドの方が大変親切にしてくれるのは嬉しいのですが、しきりに記念撮影を勧めてくるのには閉口しました。砲台にしても、確かに背景としては格好の大きさでしょうが、ピースをするわけにもいきませんし、どんな顔をして写ったらいいのかわかりません。

*3:知識が足りていないのでまだ思想として固まっているわけではありませんが、どうも個人的には日本兵の死について祈りを捧げることに抵抗があります。もちろん、「戦争」を単に時代の流れ、あるいは明確な実行犯のいない人為的災害として見るならば、彼らとて被害者の一部でしかありません。また、彼らの犠牲があったからこそ、今の社会が成立しているということもわかっているつもりです。それでも、その中で犠牲になった「罪のない」一般市民を考えると、そう単純に追悼する気にはなれないのです。彼らがカミカゼやハラキリで「お国のために」命を散らしたのは完全に自分の意志からだとは思いません(当時の風潮による洗脳のためととらえています)し、気の毒だとは思いますけれど、たとえば沖縄では言いがかりをつけて一般市民を切りつけたとか、イントラムロスで囚人を水攻めにしたりとか、そういう残忍な側面を持つ集団(この場合国籍は問わず)に祈ることは、僕にはまだできそうにありません。勉強不足なのは確かですし歪んでいるのかもしれませんが、今は少なくともそういう思いを抱いています。

*4:同様の穴倉の見学は、今までにも沖縄の「ガマ」とロンドンの「チズルハースト・ケイブ(Chislehurst Caves)」とを経験していますが、気候などのためかそれぞれ雰囲気は微妙に異なります。閉塞感という点ではむろん共通していますが。

*5:本や切手ほどではありませんが、貨幣や紙幣についても昔から蒐集の興味がありました。元来コレクター気質であることはさておき、お金の何が僕を惹き付けるのかはよくわかりません。やはりデザインとか、使われていた時代に馳せる思いとかでしょうか。